―抱擁―



白い豊かな乳房は憧れだった。

初めて着けたブラジャーが嬉しくて、ショーツとお揃いで何枚も買った。

少し苦しいような胸の締め付けは、でも守ってくれているようでそれさえも心地よかった。



透が私の乳房のなだらかな膨らみに唇をあて、含むように撫でるように愛撫する。

暖かな大きな掌は、乳房の先端を揉み抱くように。

ふぅっと息を抜いた瞬間に訪れる、高まりきった体温の放射熱に押し上げられるような浮遊
感。

透に乳房のどこを触れられても、私は感じる。

お洒落な下着を着けて外見だけの喜びはあったけれど、下着を脱げばどこかが違うような、何
かが足りないような・・・。

だけど、透が私の乳房を本物にしてくれた。

本物と思えるようになった。





「真澄・・・」

二人ダブルベッドで寝ている時は、必ず名前を呼ぶのが透のクセ。

くすぐるような耳元へのキス。思わず首をすくめて声が漏れる。

それが合図のように。

ネグリジェの肩紐を下ろして、透の手が乳房を探るように滑り込み・・・まさぐる様な、少し乱暴
な透の手つき。

・・・・・・・・?

やけに胸のあたりがだぶついて、だらしなくずり下がったネグリジェ。

恐る恐る自分の胸に手を当ててみる。

豊かな膨らみも張りのある弾力もなく、私の手の中にあ
るのは崩れた形の乳房だけだった。

一夜にして崩れてしまった私の乳房。

為すすべなく透を見た。そこには、体を起こして呆然とした透の顔。

乳房よりも何よりも、透のその表情が私には耐えられなかった。

「―――!!」

叫び声が、しかし言葉にもならない。声が出ず、息が詰まって―


目が覚める。―――夢。


汗が滲んで、まるで金縛りにあったように動けない。

暫くじっとそのままに、やっと動いた腕を伸ばしてベッドサイドの灯りを点けた。

寝息を立てて寝ている透の顔が、灯りの谷間に見えてほっとした。

そして今一度、自分の胸に手を置いて、その膨らみを確認する。

これは夢、これは悪夢。

・・・それとも正夢。

有り得ないことではない・・・私の乳房。

本物と思い込んでいただけのことだったのかしら。

造形の二文字が、また重く私に圧し掛かる。










「透、この前話したお父さんたちとの待ち合わせの時間だけど、お昼の・・・」

夕食が終わって、リビングのソファで寝転びながらTVを見ている透に話しかけた。

「今度の日曜は仕事が入ったんだ。昼間は無理だな」

大事な話なのにTVの方を見たまま、しかも最後まで聞こうともしないで自分勝手な言葉が返っ
て来た。

「何言ってるのよ。普段だって仕事で遅いのに。日曜日なのよ、お休みに仕事ってどう言うこ
と?」

思わず夕食後の片付けの手が止まる。

「大事な契約を抱えているんだよ」

あまり仕事のことは話さない透が、少し鬱陶しそうに言った。

「今度の日曜日は父の日よ。この前の母の日は、透のお義母さんとお義父さんにお会いしたで
しょう。
透と一緒でなきゃ意味がないじゃない!」

私の両親のことよりも仕事優先のような透の物の言い方が、よけい私の語気を荒くした。

「透は私の両親と会うことなんて、ちっとも大事に思ってなんていないんでしょう!」

「・・・寝る。お義父さんには俺から電話しておくから、日曜日はちゃんと親孝行しろよ」

話し合いにもならない透の態度。

「勝手なこと言わないで!」

私の言うことなど無視して、透はそのまま寝室へ行ってしまった。





恐る恐る自分の手を当ててみる。

豊かな膨らみも張りのある弾力もなく、私の手の中にあるの
は崩れた形の乳房だけだった。

一夜にして・・・


また同じ夢を見た。同じところで目が覚める。

夢の中の、透の形容し難い表情。

ベッドサイドの灯りをつけて、透の寝顔を確認する。これは夢なのだと。


「・・うん?・・・どうした」

灯かりの眩しさに目を覚ました透が、覗き込む私を抱き寄せた。

透の胸に頭を乗せて、心臓の鼓動を聞く。

規則正しい心音は乱れた私の心音を優しく覆い込み、透の暖かい体温が私の不安を溶かす
よう。

「・・・夢を見たの。とっても怖い夢」

「・・・怖い夢?どんな・・・俺が退治してやる」

半分寝ぼけているみたいに、それでも透の腕が強く私の身体に絡みつく。

帰りが遅くても、時々、お酒に混じって香水の匂いをさせていても。

仕事を口実に、疲れているからと義務のような抱き方をされても。

こんなふうに抱きしめてくれたなら、私は安心するのに。

透・・・・・・。










透がいけないの。

いつだって自分勝手で、私の言うことなど聞いてくれないし。

仕事って言いながら、毎晩毎晩お酒を飲むのが仕事なのかしら。

今日だってまた約束を破られた、ウソをつかれたのよ。

「・・・マスター?聞いてるの?」

空になったグラスを、マスターの前に差し出す。

「聞いてるよ。・・・真澄ちゃん、ちょっとペースが早いんじゃない?」

マスターがゆっくりした動作で、空になったグラスを引き上げる。

少しでも私のペースを遅らそうとする、マスターの魂胆。優しいマスターの心遣い。

だけど、マスターだから許せるの。

こんな私のペースを乱すようなこと、あの甘ちゃん坊やなら許さないわ。

ちらりと坊やに目をやれば、相変わらずおどおどと、わざと目を逸らしているのが丸わかり。

カ。


「真澄ちゃん、あの子昔の君によく似てるだろ?」

目を細め、懐かしそうなマスターの表情。

「どこが!」

キッ!と睨みつければ今度は泣きそうな顔の坊や。

バカッ!


「真澄ちゃん、いい加減若い子に絡むのは、やめてちょうだい。ほら、お迎えが来たわよ」

ママのきつい口調とお揃いのような顔をした透が店に入って来た。

一直線に私のところへ来て、そのまま腕を掴まれた。

「ママ、今日は急いでいるので。精算は後日に」

また一方的に話をする透。どこまで勝手なのかしら!

「離してよ!急いでなんかいないわよ。今日はずっとここに居るんだから!」

ぐいっと腕を引き戻しても、反対にもっと強い力で引かれて、椅子から剥がされるように立ち上
がった。

「痴話喧嘩なんかされたら、他のお客様の迷惑です。トモ君、篠田様お帰りよ。お見送りして」

「ママッ!まだ帰らないわよ!」

もう一度椅子に座り直そうとしたけど、透に抱きかかえられるようにしてカウンターから引き離さ
れた。


トモ君?甘ちゃん坊やの名前。

ありありとほっとした顔が憎たらしくて、店の出口のところで

「トモクン、ま・た・ねっ!」

ほとんど八つ当たりに足を踏んだ。

男のクセに悲鳴なんか上げるから・・・。


バシィンッ!!

「ごめんな。マナーの悪い客で」

透が苦笑いで坊やに謝っていた。

私は恥ずかしくて顔が上げられない!

ボックス席の方から、聞きたくない声援や笑い声に顔が真っ赤になった。

「姉ちゃん!頑張れ!負けんなよ!」

「ワッハハハッ!」

透にお尻をぶたれた。それも思いっきり。


「やぁぁん!!痛っ・・・酷いぃ!何するのよ!恥ずかしくて当分店に行けないじゃない!」

店を出てぐいぐい引っ張る透の背中を、自由の利く片方の手で力任せにポカポカ叩いた。

背中越しに、全然こたえてない透の声。

「それは良かった。お義父さん、お義母さん、お待たせしました」

父と母が透の車の前に立っていた。

いつもの穏やかな父が微笑んでいた。

困った子ねと、心配性の母は眉根が相変わらず少し歪んでいた。

「お父さん!私、お父さんのところに泊まる。家には帰らないから!」

駆け出して父に抱きついた。

どんな時でも私を受け止めてくれた父の手が、子供の時と同じように私の頭を撫でる。

溜息をつきながらも、そっと背中に添えられた母の手。

「行きましょうか、お義父さん、お義母さん」

透が後部座席を開けて、父と母を促した。

「父さんたちが真澄のところに泊まるんだよ。透君が誘ってくれたからね」

「私達の家に、透が・・・?」

お父さんとお母さんの前では、いい子振るんだから・・・。

そんな私の不満などそ知らぬ顔の透と、結局、父と母も一緒に透の車で家に帰った。





今日は日曜日で父の日だった。

昼間はお父さんの大好きなお寺巡りをして、それから予約していた料亭でお食事をして・・・。

ずっと楽しみにしていたのに、透のせいで全て潰れてしまった。

「日曜は仕事が入っているからと、言っておいたんですけどね・・・」

「ウソッ!仕事は他の日にまわすって言ったわよ!」


あの夜。怖い夢を見た夜。・・・抱きしめてくれた夜。


―こんなふうに抱きしめてくれたなら、私は安心するのに―


透と一緒に父の日を祝って上げたい。

お父さんに・・・幸せな私を見て欲しい。

「透、もう一度考え直して。お仕事は他の日に振り替えてもらえないかしら。お願い」

今度は喧嘩ごしなんかじゃなくて、ちゃんとお願いしたわ。

「うん・・・。わかった・・・そうしよう」

はっきり聞いたもの。だから、わかってくれたと思っていたのに。

そんなこと全然覚えていないって。

私を抱きしめてくれたことも、悪い夢を退治してくれるって言ったことも、
記憶にないって何の冗談かしら。

寝ぼけていたにしても(ほど)があるわ。普段から人の話を聞いていない証拠なのよ。

「私の言うことなど聞こうともしないで、さっさと出掛けて!携帯に電話しても出ないし、会社も業務
終了のアナウンスだし!
どこに居るかわからないなんて、仕事なんて言いな
がら怪しいものね!」

一旦不満が口を突くと、思ってもいなことまでつい言ってしまう。

幸せな私を見て欲しかったのに。

みっともなく取り乱す、こんな私を見てもらいたかったわけじゃないのに。

「・・・真澄、俺のことよりも先に、ひと言くらいお義父さんに言うことがあるだろ?
お前からの連
絡をずっと待っていらしたんだぞ」

またギッと睨む透の目。ほんとうに怒っている時の目。

「いや、私達のことはいいから。真澄、透君は年齢的にも今一番仕事が大変な時なんだよ。
前がしっかり支えてあげないとな」

諭すような父の言葉。

「そうですよ。そんなことにいちいち腹を立ててどうするの?」

嗜めるような母の言葉。

父と母の透を庇う言い方が悔しくて、私は素直になれなかった。

「真澄!」

透の怒鳴り声に反応したのは父だった。

「まぁまぁ、透君。私達はね、真澄が元気で幸せに暮らしている姿を見られただけで満足だ
よ。
今日はありがとう。さて母さん、帰るか・・・」

「帰るの?どうして!泊まって行くんじゃないの、お父さん、お母さん」

ソファから立ち上がった父の手を、思わず両の手で包むように取った。

「二人でゆっくり話し合いなさい。帰るよ、宏之(ひろゆき)も心配しているからね」

宏之、五歳違いの弟。

「・・・お母さん、宏叱って。私のこと呼び捨てにするのよ。ちゃんとお姉さんと呼びなさいって」

「ええ、そうね。それはいけないわね、叱っておきます。
真澄ちゃんも、透さんの言うことを良く
聞いて仲良くするんですよ」

父の手を握り締める私の手に、重なる母の手。

透と笑っている私を見て欲しかったのに。こんなふうに我儘で強情な私じゃなくて。

なのに、父も母も私が幸せに暮らしている姿を見ることが出来たと言った。


お父さん、お母さん、ごめんなさい。

言おうと思ったのに、胸がいっぱいになって言葉にならなかった。


「お義父さん、お義母さん、送ります」

タクシーで帰るからと何度も言う父に、車の鍵を手にした透が「はい、はい」と、笑いながら返事
をしていた。





今日も夢を見るのかしら・・・。

昨日と同じ、怖い夢・・・。

私が幸せなのはこの乳房があるから・・・?

この乳房が崩れてしまったら、また女性でいられなくなるのかしら。

私の幸せも崩れてしまうのかしら。

父と母は悲しんで、宏は何て言うかしら・・・。

仕方ねぇじゃん、元気だせよ・・・なんて、案外慰めてくれるかも知れないわね。

透は・・・


「俺は変わらないよ。真澄のこの乳房がたとえ崩れても、こうして抱きしめて手を添えていた
い・・・」

寝室のドレッサーの前に座って自分の姿をぼんやり見ていたら、透が父と母を送って帰って来
た。

「透・・・」

振り返ろうとしたところで、抱きしめられた。

「透・・・でもほんとうに崩れちゃったら、きっと透は夢の中の透と同じになるわ」

鏡を見ることが出来ず俯く私に、

「真澄・・・」

くすぐるような耳元へのキス。

思わず首をすくめて声が漏れる。それが合図のように。

ボタンとホックが外れ、するりと滑るようにブラウスとブラジャーが腕から脱げて床に落ちた。

「顔を上げて・・・綺麗だよ。だけど形あるものは、いつかみんな朽ちて行くんだ。
真澄のこの乳
房もこの顔も、俺の顔も体も。みんな造形物なんだよ」

両脇から乳房を押し上げて、円を描くような愛撫は陶酔感にも似て。

「だって透、夢を見るんだもの。・・・怖いの」

「俺が退治してやる。今夜はずっとお前を抱きしめていようか。真澄が忘れてしまわないくらい
に」

寝ていても起きていても、透は同じだった。

私を抱きしめ守ってくれる。

「一緒に年を取ろうな。お互いシワが増えて、真澄は胸がペシャンコになって。
俺は・・・髪の毛
が抜けていったらどうする?こっちの方か重大だろ」

「やだ、禿げ頭の透・・・でも二人で過した年月の重さが、きっと愛しさに変わるわ」

何度も交わす口づけは、意地を張っていた私の心を解きほぐすよう。

「来週早々には契約も取れるから、そうしたら仕事も一段落する。当分ゆっくり休めるよ」

「本当!?日曜日お休み出来るのね、透!それじゃ来週は久し振りに映画を観たいわ。
それ
からお買い物をしてお食事をして。結婚してから一度も映画は観ていないから・・・」

透が裸の私にバスローブを着せてくれて、抱えながらダブルベッドに移る。

まるで昼間の諍いがウソのよう。

二人の濃密な時間。

「今度の日曜日は、父の日のやり直しをするんだよ。・・・真澄、お前やっぱり全然反省してなか
ったな」

「何よ、急に・・・・・・したわよ」

「ウソつけ。反省していたら、まず今日のやり直しを考えるだろ」

せっかくいいムードに戻っていたのに、透の自分だけいい子の発言がカチンときた。

「どうせ透が勝手にお父さんに話たんでしょう。透は私の両親の前ではすぐいい顔するんだか
ら」

背を向けて布団に潜った私に、透は余分な言葉付で気が削がれるほどあっさり認めた。

「そうだな。俺の大事な奥さんの、ご両親だからな」

そしてその余分な言葉が、また私の心を揺らす。

「・・・調子いいんだから。騙されないわ」

「俺は信用がないんだな。わかった、有言実行で信用を取り戻すとするよ」

背後から透がベッドに体を滑り込ませて、腕を私の腰に巻き付けてきた。



―今夜はずっとお前を抱きしめていようか。真澄が忘れてしまわないくらいに―







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